『夢のアトサキ(サンプル)』



 また私は囚われる。抜け出せない檻の中に。

 葉留佳になりすました記憶。
 好きでもない男とキスをした記憶。
 空っぽの笑みを返し、体を重ねた記憶。
 限界まで追い詰めて、あの子の笑顔を壊してしまった記憶。
 演じて、憎んで憎まれて。
 偽りがいつしか本当になって。
 気付けば本当になにもわからなくなった。わからぬままに、ただもがいていた。

 ──パァンッ!
 星が散るほどの衝撃によろめいた。
 口の中に血の味が広がる。
「あんたなんか……あんたなんかっ」
「……ふん」
 崩れた体勢を戻して葉留佳に向き直る。
「まったく、言葉で勝てないから手を出すなんて野蛮極まりないわね。どこまで不快にさせれば気が済むのかしら」
 だからあなたは人間のクズなのよ。そう吐き捨てる。
「……っ」
 葉留佳の肩が小刻みに揺れた。
 視線をわずかに下げれば、手が白くなるほどにきつく握り締められている。
 この行為が非生産的だなんてことはとうに理解してる。それでも私はこのやり方を貫くしかない。
 視線を戻したところで視界の端に直枝理樹の姿を認めた。あとは二人の関係が壊れるように、そのきっかけを作ってやればいい。
 なにも変わらない。これまでも、これからも。この先に道なんてないんだから。
「なぁに? まさか図星を指されて怒ったとでも言うつもり? はっ、笑わせないでちょうだい。へそで茶が沸くわね」
 怒りに震える様子を鼻で笑ってやる。
 葉留佳が直枝に気付いた様子はない。私はタイミングを計りながら言葉を重ねた。
「あなたの今の行為は処分ものよ。……よかったわねぇ、目撃者が誰もいなくて。それともまさか狙ってたとか? だとしたら、碌でもないことにだけは本当によく頭が回るのね、感心するわ」
「っ、誰がっ……あんたなんかと一緒にするな! 私はあんたとは違うっ!」
 いきり立つような叫び。
 私はその主張を逆手に取った。より一層劣等感を煽るように仕向けて。
「……そうね、その通りよ。私とあなたでは出来が違うもの。あなたみたいなオチコボレと一緒にされたら困るわ」
 葉留佳の顔が憎々しげに歪む。
 私たちの剣呑な雰囲気を感じ取ったのか、直枝が慌てて走ってくる。
「あなたがお友達だと思ってる彼らだってそうよ。あなたが一緒にいるだけでみんな迷惑してるの」
「そんなの嘘だっ、でたらめばかり言うなっ」
「本当にそうかしら? 口にしないだけで、みんな腹の底ではそう思ってるかもしれないわ。知らないのはあなただけ」
「黙れっ、あんたの言うことなんか信用するもんかっ」
「ふん、だったら思い返してみなさい。そのお友達にも言われたことがあるんでしょう? 『邪魔だ』とか『うるさい』とか」
「っ……黙れっ!」
「ほら、思い当たる節がある」
「うるさい、黙れぇ!」
 葉留佳が涙声で叫ぶ。もう限界なのは一目で明らかだった。
 心を無にして、最後の一押しをする。
「ねぇ、仲良しごっこは楽しかった?」
「────黙れ黙れっ、黙れぇぇぇっ! いつもいつも私を見下して馬鹿にしてぇぇっ!」
「ぐ……っ」
「は、葉留佳さんっ……くっ、ダメだ抑えて!」
「か……ごほっ、けほっ……」
 直枝が葉留佳を押さえ込んでいる間に拘束から逃れた。
「離してっ、離せっ……離せぇぇぇ!」
 完全に頭に血が上っている。すぐ傍にいる恋人の声さえ届いてない。
 これで二人の歯車が噛み合わなくなれば、あとは勝手にすれ違いを重ねていくだけ。これ以上、私が手を下す必要はない。
「……はっ、救えないわね。まだ気付かないの? 今あなたを押さえているのが誰なのか」
「葉留佳さんっ」
「え……? え、あ……り、理樹くん……な……なんで」
「ふぅ、やっと気付いてくれたね」
 ようやく葉留佳が直枝理樹に気付く、と同時に膝から崩れ落ちるように地べたに座り込んだ。
 結局は依存でしかない関係なら、たとえ恨まれようとそんな関係は終わらせてしまった方がいい。
「ねぇ、直枝理樹。あなたも見たでしょう? 三枝葉留佳がいかにロクデナシか。これが三枝葉留佳の本質よ」
「あっ、ち、ちがっ……わた、私っ」
「葉留佳さん」
 直枝は私には見向きもせずに、葉留佳の手を握ると正面から抱きしめた。
「大丈夫だよ、葉留佳さん。大丈夫、わかってるから」
「理樹くん……?」
 直枝はまるで子供をあやすように葉留佳の頭を撫でた。
「なにも心配いらないから。だから安心していいよ」
「……うん……うんっ」
 おかしい。いつもの直枝理樹の反応じゃない。本来なら、今の流れで反論してきたはず……。なにかが引っ掛かる。
「……ありがとう、理樹くん」
「どういたしまして。どう? 少しは落ち着いたかな」
「うん」
「そっか、よかった」
 不意に、直枝理樹が色のない目を向けてきた。ぞわりと背筋が粟立つ。拭えない違和感がさらに大きくなった。
「それとさっきの答えだけど、葉留佳さんを探してたんだ。少しでも葉留佳さんと一緒にいたいと思って。葉留佳さんはどうかな?」
「え?」
「葉留佳さんも僕と同じ気持ちだとうれしいんだけど」
「わ、私もっ……理樹くんと、同じだよ……。うん、同じ……やはは……」
 交わされる会話の内容と向けられる視線の隔たりに、薄ら寒ささえ感じる。
「……直枝理樹。悪いことは言わないわ、三枝葉留佳とはさっさと縁を切りなさい。不幸になりたくなければね」
「そんな話は聞けないよ。それよりも、今すぐ僕たちの前から消えてくれないかな。君こそ不幸になりたくないでしょ?」
 直枝の目の色は、既に狂気を孕んでいる。まるで別人だ。
 だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「ふん、随分と悪影響を受けてるみたいね。取り返しが付かなくなる前に、見切りを付けた方が身のためよ。でないといつか、本当に引き返せなくなるときがくるわ」
「余計なお世話だよ。君にとやかく言われる筋合いはないよ」
「……聞く耳持たず、か。せっかくあなたのためを思って言ってあげ──」
「──二木さん、いい加減にしてくれない? 僕にだって我慢の限界はあるんだ」
 思わずたじろいだ。
 このままでは葉留佳が消えてしまう。否が応でも焦りが浮かぶ。
「……随分な態度を取るのね」
「君が言えたことじゃないと思うよ」
「くっ……」
 これ以上は言い合っても、却って悪い状況へと進みかねない。そう判断して立ち去ることにした。
「わかったわ。いくら言っても無駄みたいね、二人ともお似合いよ。……クズはクズ同士、せいぜい傷でも舐め合ってればいいわ」
 苛立ちから思わず悪態が口をついて出た。
 なにか早急に手を打たないと……。
「────ぁあああぁああぁっっ」
 絶叫に足を止め振り向いた。
 ──ドスッ!
 腹部に衝撃を感じた。
 葉留佳。手。ドライバー。赤い。刺された──と認識した途端に激痛に襲われた。
「ぃぎっ……げほっ……っ……ぁぁあっ」
 あああぁああぁああぁぁ──────
「はぁっ……はぁ……っ」
 混濁する意識の中で辛うじて判別できたのは、両手を真っ赤に染めた葉留佳と、冷めた眼で見下ろす──

「おまえなんか、死ねばいいんだっっっ!」

      § § §

「──ッ!? ……ハァ……ッ……ハァ……」
 気が付くと、いつもの見慣れた天井を見上げていた。じっとりと濡れた背中が気持ち悪い。
 横を向けば、クドリャフカが寝息を立てている。
「ハァッ……ハァ……また、あのときの……」
 修学旅行でバス事故が起きた日に見た、不思議な夢。決められた日常を延々と繰り返すだけの、そんなたわいもないはずのもの。
 けれど私にとってあの夢は、私が葉留佳と姉妹の絆を取り戻したきっかけであり、同時に罪の証でもあった。
「本当に、いつまで見続ければいいのかしらね……」
 あの夢が私の心に刻んだものは、喜びでも感謝でもなく、罪悪感だった。
 現実に葉留佳と仲直りした日から、あのときの夢にうなされる日々が今も続いている。正直、気が狂いそうだ。
「本当に……」
 幸いクドリャフカには気付かれずにすんだ。静かに息を吐く。今はとりあえずシャワーを浴びて、寝汗で濡れた服を着替えたい。
 私は寝ているクドリャフカを起こさないように、そっとベッドから下りると浴室へと向かった。
 寝汗に濡れた服をすべて脱衣かごに放り込む。横を向けば、なにひとつ身に纏っていない自分の姿が鏡に映る。この瞬間が私は一番嫌いだった。
 どす黒く変色した皮膚、浮かぶミミズ腫れ。刻まれた疵痕は醜悪で、自分の体なのに目を背けたくて仕方なかった。
 あの夢も、この疵痕も……なにもかも全部、洗い流すように消えてくれたら楽だったのに……。
 私はコックを捻ると衝動に任せ、熱くしたシャワーを頭から浴びた。

 汗を流して着替えたものの、二度寝をする気にはなれなかった。目を閉じるとあの夢の光景が瞼の裏をちらついて離れない。またあの夢を見るくらいならと、気分を入れ替えるために部屋を出ることにした。
 寮館から出た途端、少しひんやりとした空気が体を包み込む。私は朝の静かな空気の中をゆっくりと歩き出した。
 しばらく歩いていると見知った顔に出くわした。
「げっ、二木」
 Tシャツに学ランの上着、ジーンズのパンツというなんともちぐはぐな格好をした男。井ノ原真人。
「おはよう、井ノ原。別に見回りをしてるわけではないから、そう身構えなくていいわよ」
 そう言った途端、井ノ原の顔から警戒の色がきれいさっぱり消えた。
 そうあからさまな態度を取られても癪だが、風紀委員と問題児という関係ではこの反応も仕方ないかしらね。
「ふぃーっ……なんだ、おどかすなよ。心配して損しちまったじゃねえか」
「知らないわよ、そっちが勝手に勘違いしただけでしょう」
 さすがにこんな早朝に見回りをしたところで意味がない。
「それにしても……早起きなのね、あなた」
 こんな時間に遭遇するとは思わなかった。悪夢にうなされて起きるようなことがなければ、私もまだ寝ていたはずだ。
「まぁな。こうやってよく早朝トレーニングしてんだよ」
「へぇ、意外ね」
「ん? 筋肉を鍛えてることがか?」
「……それはむしろ想像通りだったわ」
「へっ、ありがとよ」
 なぜそこで感謝の言葉が出るのか、全く以て意味不明だった。本当にこの男の思考回路はどうなっているのかしら。
「褒めてないわ。そっちじゃなくて生活態度のことよ。もっとぐうたらな生活をしているものだと思ってたけど、案外規則正しい生活を送っているのね」
 少し見直した。
「ん? トレーニングしない日は結構ギリギリまで寝てるぜ」
 と思ったのも束の間、井ノ原は全く自慢にならないことを言いながら、なぜか胸を張った。
「はぁ……変わらないわね、あなたは」
 それがいいのかどうか、私にはわからない。少なくとも私には真似できないと思った。
 ただ、そんな井ノ原の姿が私には少し眩しく見えた。

      § § §

「おっ。いらっしゃーい、かなちゃん。休みなのに精が出るわねー、感心感心」
 寮会の仕事をこなそうと寮長室に足を運ぶと、意外にもあーちゃん先輩の姿があった。
「あーちゃん先輩、いらしてたんですか」
 三年生は就職活動が解禁になって、今が特に忙しい時期だと記憶してるけれど。
「ん、ちょーっとかなちゃんの様子を見ようと思ってね。どう調子の方は?」
 もしかしたら、あーちゃん先輩には見抜かれているのかもしれない。それでも私は普段通りを意識して答えた。
「別に変わりはありませんよ。いつも通りです」
「そう? ……その割には目の下にクマが見えるけど」
 言われて、つい目元に手を伸ばしてしまった。
 はっとしてあーちゃん先輩を見ると、やっぱりといった顔をしていた。
「っていうのは嘘なんだけど、その顔は自覚があるみたいね。疲れて見えるっていうのは本当よ」
 ……この人には敵わないわね。
「頑張るのもいいけど、かなちゃんの場合は頑張りすぎね。たまには肩の力を抜いて休まないと。それとなにか悩みがあるなら相談に乗るわよ」
 おそらく、ずっと心配を掛けていたのだろう。親身になってくれるあーちゃん先輩の存在は素直にありがたかった。
 けれど、あの夢ついて具体的に話せない以上、結局ごまかすより他になかった。
「いえ……最近ちょっと寝付きがよくなくて。それで少し寝不足気味なだけですから」
「寝不足? それって保険医の先生に相談はしたの?」
「はい。簡単に話はして、仮眠を取るためにときどきベッドを貸してもらってます」
「そう、それなら問題ないわね。まあでも、今後も続くようなら一度きちんと診てもらった方がいいと思うけど」
「ええ、わかってます」
 それでも、夢の内容を誰かに打ち明けることはできない。
「あと、かなちゃんはもっと人に相談した方がいいわよ。例えば能美さんや三枝さんとかね」
「それは……」
「卒業するまでは私でもいいんだけど、就職後はなかなか相談に乗ってあげられなくなると思うのよね。もちろん相談の連絡は全然構わないんだけど。でもやっぱり学校にいないと難しいこともあるだろうし、かなちゃんって結構溜め込むタイプだから余計に心配でね。あの二人だったらそういうところも気に懸けてくれるでしょうし、来年以降も学校にいる人って考えると、能美さんと三枝さんの二人は最適なんじゃないかしら」
 あーちゃん先輩はそう言うが、あの夢のことを二人に相談することはできないし、するつもりもない。
 相談できる人、か。
「そういえば、かなちゃんは今好きな人いたりするの?」
「なんですか急に……いませんよ」
 また唐突に話題を変えたものだと思った。
「いるならほら、相談相手になってもらうのもいいんじゃないかと思って。でもそっかぁ、いないんじゃ仕方ないわよね」
「はぁ……。変に気を回さないでください。そういうあーちゃん先輩はどうなんですか」
「ん? 私はいるわよ」
 予想に反して、あっさりと肯定の返事が返ってきた。初耳だった。
「片想いだけどね」
 そう言って、あーちゃん先輩は小さく舌を出して笑った。

      § § §

 ヴーッ、ヴーッ。
「ん」
 ポケットの中の携帯が震えた。
 携帯を出してさっと確認する。葉留佳からの着信だった。
「はい、もしもし」
『あ……えーと、今って大丈夫ですかネ?』
「ええ、大丈夫よ」
『そ、そっか』
 電話越しに葉留佳が小さくため息を吐く音が聞こえた。どこか普段の葉留佳らしくないと思った。
「それで、どうしたの?」
『えっと……実はですネ、ちょっと報告したいことがあるんですヨ』
「報告? どういった内容かしら?」
『あー、えと……ちょ、ちょっと待って!』
 話の続きを促してみたがどうやら緊張しているらしく、深呼吸を繰り返す音が聞こえてきた。
 そんなに緊張するなんて、一体どんな内容かしら。
 そのまましばらく待っていると、やがて大きく息を吸い込む気配が伝わってきた。
『お、お待たせっ』
「えぇ」
『そ、そのっ、私と理樹くんなんだけど……』
 それだけでおおよその見当は付く。
 私は小さく返事を返すと葉留佳の言葉を待った。
『きょ、今日から恋人として付き合うことになりました!』
 予想通りの言葉。
 あの夢とは違い、私が邪魔をすることはない。その必要もない。ただ素直に祝福の言葉を贈った。
「おめでとう葉留佳。よかったわね、想いが実って」
『うん……ありがとう、お姉ちゃん』
 緊張が解れたのか、葉留佳の声は少し潤んでいた。
「それにしても、告白じゃないんだからそんなに緊張する必要ないでしょうに」
『いやぁ……そうは言ってもさすがに緊張しますヨ。やはは』
「まあ……何はともあれ、恋人ができたからって羽目を外さないようにしなさいよ。風紀を乱せば処罰の対象になるんだから」
『それはわかってますヨ』
 ようやく少しだけ、いつもの葉留佳らしい調子が感じ取れた。
「頼むわよ」
『心配性だなぁ、お姉ちゃんは。大丈夫ですよ。私、理樹くんと一緒にいるだけで満足だもん……えへへ』
 携帯から聞こえる葉留佳の声は、これまでにないくらいの幸福感に満ちていた。

      § § §

「佳奈多さん、お待たせしました」
 定食を載せたトレイを手にクドリャフカが姿を見せた。
「大丈夫よ。それじゃあ、いただきましょうか」
 クドリャフカが席に着いたところで声を掛ける。
「はいっ」
 二人揃って唱和して、夕飯を食べ始めた。
「あ、佳奈多さんは今日はオムライスですか」
「ええ。そういうクドリャフカは焼き魚定食かしら?」
「はい。しかも今日は旬の秋刀魚なのですっ」
 うれしそうにクドリャフカが言う。
 気前のいいことに、皿の上には焼いた秋刀魚がまるまる一尾載っており、脇にはおろしとスダチが添えてあった。
「そう。あなたって本当に和食が好きね」
「はいっ。日本食はどれもおいしくて好きなのです。佳奈多さんもお好きですよね?」
「ええ、そうね。クドリャフカほどじゃないけど、しばらく食べてないとやっぱり恋しくなるものよ」
 飽食なんて呼ばれる今の時代だからこそ、逆に一汁一菜であってもごはんが食べたくなるときがある。
「それこそが、じゃぱにーずふーどのぱわーなのですっ」
 クドリャフカは食に関して一家言を持っているようで、ときどきこんな風に熱く語ることがある。小さく握り拳をつくって熱く語る様はちょっとアンバランスだけど、こういうところもクドリャフカの魅力だと思った。
「あ、そうです。佳奈多さんにお話があったんでした」
 クドリャフカが思い出したように声を上げた。
「なにかしら」
「実はですね、三枝さんのご提案で今日は鈴さんの部屋でお泊まり会を開くことになりまして、このあと皆さんで集まることになっているのです」
 あの子からの提案か……。きっと直枝と恋人関係になったことを打ち明けるために提案したんだろう。昨日の今日というのは早い気もするけど、あの子なりに考えた結果なら私は応援したいと思う。
「そうなの。よかったわね、楽しんできなさい」
「はい! よろしければ佳奈多さんも一緒に参加しませんか?」
「いえ、遠慮しておくわ」
「そうですか? 皆さんなら歓迎してくれると思いますけど」
「残念だけど、今日はまだやることが残ってるのよ」
 本当のところは、別に今日やらなくても構わない。ただ、その場所に居づらいと思っただけだ。
「そうなのですか。わかりました」
「それじゃあまた明日ね、クドリャフカ」
「はい、また明日です」
 私は部屋に戻るクドリャフカを見送った。
 あのメンバーの中で何人が直枝に思いを寄せているのかはわからないけれど、変に拗れないことを願うばかりだ。

      § § §

「あ、佳奈多さん」
 食堂へ行くと昨夜のお泊まり会に参加していたクドリャフカとばったり出くわした。
「おはよう、クドリャフカ」
「あ、はい。おはようございます」
 手になにも持っていないところを見ると、既に朝食を終えて部屋に戻るところだろうか。
「クドリャフカは朝食はもう食べたのかしら」
「あ、いえ、これからなのです」
 てっきり昨日一緒だった彼女たちと食べたのかと思っていたが、どうやらまだらしい。少し不自然な気はしたが、そういうこともあるだろうと思い直した。
「そう。なら一緒に食べましょうか」
 クドリャフカを誘い、二人で朝食を取ることにした。

「クドリャフカ? どうしたの、ぼーっとして」
「ふぇ?」
 食事を始めてから、先ほどよりも違和感が大きくなった。
 時折クドリャフカの箸を進める手が止まり、会話もどこかうわの空になっているように感じられた。
「なにか気に掛かることでもあるの?」
「あ、えと、実は昨日遅くまで起きていたので、それでちょっと寝不足気味なのです」
 寝不足と聞いて、一瞬あの夢のことが頭に浮かんだがすぐに打ち消した。
「そう……無理はしないようにね。それと夜更かしは体調にも響くんだから、まずはしないように心掛けること」
「すみません、気を付けます」
 どの口がほざくのかと自分でも思ったが、クドリャフカは素直に忠告を受け入れた。
「あ、そういえば佳奈多さんはご存知でしたか? 昨日、三枝さんからリキとお付き合いを始めたということを聞いたのです」
「ええ、知ってるわ。私も葉留佳から電話で報告を受けたから」
「そうなのですか。……とっても、喜ばしいことですよね」
 言い聞かせるようなクドリャフカの言葉に、この子の胸中を思うとなんともやりきれない気持ちになった。

      § § §

「二木さん、ちょっといい? 聞きたいことがあるの」
 あーちゃん先輩が珍しく真面目な声でそう言ってきた。
「はい、構いませんけど。どんな内容ですか」
「能美さんのことよ。最近の彼女、精彩を欠いてるじゃない。ルームメイトの二木さんなら、なにかその辺りの事情を知ってるんじゃない?」
 まさかあーちゃん先輩がその件を知ってるとは思わなかった。
「どうしてって顔してるわね。ひとつひとつは取るに足らないような些細なうわさ話なんかでも、いくつも集まれば案外見えてくるものがあったりするのよ。寮長なんて仕事をやってると特にね。──それが良かれ悪かれ、ね」
 そこまで言われ、私は話せる範囲で事の経緯を打ち明けた。
 本当は多忙なあーちゃん先輩に相談するつもりはなかったけれど、そんな私の考えも見抜いていたのだろう。
「そうね……あまり当て推量でものは言えないけど、今回の能美さんの件に関して言えば、十中八九直枝くんと三枝さんが恋人になった件でしょうね」
「……やはりそう思いますか」
「まあ、いろいろ耳に入ってきてるから」
 あーちゃん先輩が苦笑いを浮かべた。
 今回もあーちゃん先輩は私が話す前から既にほとんどのことを把握していて、私は改めてあーちゃん先輩の存在の大きさを実感した。
「でもこればっかりは本人次第なのよねぇ……。どうやって受け入れて乗り越えるか、結局はその人が自分でどうにかしなきゃいけない問題だから。周りがとやかく言ってもなかなか受け入れるのは難しいと思うし。だから、いつも通りに接してあげることが一番だと思うわよ」
 結論は普段と変わらず見守っていくこと。詰まるところ、行き着く先はそこしかないんだろう。
「そうですね……わかりました。あーちゃん先輩もわざわざありがとうございました」
 あーちゃん先輩が手を振って答える。
「いいわよ二木さん、そんな畏まらなくて。寮生のケアも寮長の役目なんだから。……でも、かなちゃんも難しい立場よねぇ。妹さんに恋人ができたのに、それが原因で今度はルームメイトが落ち込んでるなんて」
 事実、葉留佳の姉である私がこの件でクドリャフカに言ってあげられることはなにもない。クドリャフカの肩を持てないということは、なにもできないのと同義だ。
「いえ……それじゃあ失礼します」
 私は返す言葉を持てず、ただ挨拶だけをして寮長室を後にした。
 部屋に戻るとクドリャフカの姿はなく、机の上にぽつんと携帯だけが置かれていた。

 日が落ち始める時間になっても、クドリャフカはまだ戻らない。
「携帯も置いてどこに行ったのかしら……」
 葉留佳なら知ってるかしらね。
 クドリャフカと一緒にいるか、確認を取ることにした。
『もしもし?』
「私よ。葉留佳、ちょっと聞きたいんだけど、今あなたの他に誰が周りにいるのかしら?」
『え? えと、理樹くんがいますヨ』
「そう、直枝ね。他には誰がいるの」
『えーと、実は二人きりだったり……』
「他のメンバーは一緒じゃないの?」
『やはは……なんか、みんなが画策した結果みたいですヨ』
 その声からはうれしさよりも戸惑いの方が大きいように感じられた。
「そう。じゃあ他のメンバーが今どうしてるかは知らないのね」
『うん』
「わかったわ。それと葉留佳、あなたは羽目を外さないようにね」
『もう、わかってるよ。それくらい』
「冗談よ。それじゃあね」
 葉留佳との電話を切った。
 葉留佳は知らなかったが、他のメンバーなら知ってるかもしれない。
 クドリャフカを探しにとりあえず部屋を出た。
 リトルバスターズが集まりそうな場所を思い浮かべる。一番にグラウンドが脳裏に浮かんだ。
 可能性が高いのはグラウンド、それと中庭ね。そう思い、グラウンドに向かった。
 けれど、その予想に反してグラウンドにリトルバスターズの姿は見当たらなかった。ただ女子ソフトボール部の練習姿が見えるだけ。途中で通った中庭にもリトルバスターズの姿はなかった。
 下校時刻は過ぎていたが、念のため校舎の中を教室、図書室、視聴覚室と順々に覗いていく。やはりリトルバスターズの姿は見当たらない。
「これだけ捜して見つからないなんて、誰かの部屋にいるのかしら」
 そこまで言ったところで、まだ捜していない場所があったことに気付いた。
「そういえば、裏庭がまだだったわね……」
 とは言え、あまり期待はできなさそうだ。それでも確認はしなければいけない。
 既に日も完全に落ちた中、裏庭に着いた。が、案の定誰もいない。
「仕方ない。寮に戻ってそれぞれの部屋を訪ねて確認を……?」
 ふと、今眺めている光景に違和感を覚えた。……なにかが足りない。周囲を見回したところで、ストレルカとヴェルカがいないことに気付いた。
 今日の見回りでは連れて行く予定はなかったはず。なら、ストレルカとヴェルカを連れて行ったのは……。
 ひとまず寮に向かうことにした。
 その途中、土手の上を駆けてくる人影が視界の端に見えた。遠目から見てもわかるほど大柄で、上半身に着ている赤い服がやけに目立つ。
「あれは」
 人影が近付いてくるにつれ、徐々に人物が判別できるようになる。人影の正体は井ノ原真人だった。どうやら、いつもの学ランは着ていないらしい。
「げっ」
 井ノ原は私に気付くといつものように呻いた。
「全く……少しは隠そうとは思わないの? まあ、あなたらしいけど」
 相変わらず癪に障る態度ではあるけれど、裏表がないのはある意味この男らしいとも言える。
「それはともかく、井ノ原。門限ギリギリよ、気を付けなさい」
「んだよ、いいじゃねえか。間に合ったんだろ?」
「5分前よ」
「へっ、オレの筋肉時計もなかなかやるじゃねえか」
 相変わらず訳のわからないことを言う男ね。腹時計の間違いじゃないのかしら。
「まぁ……門限の方は問題ないわ。それよりも、いつもの上着はどうしたのよ?」
「あぁ、あれなら置いてきたぜ。今日はちょっと脱いで走りたい気分だったからな」
 よくわからない理屈だが、いかにもこの男らしいと思ってしまうのは、さすがに毒されすぎだろうか。
「……反省文提出ね」
 とりあえず思考を切り替えて罰を言い渡す。
「なにぃっ!?」
「平日はたとえ学外でも、学校指定の服装が義務づけられているのよ。学則にもそう書いてあるでしょう」
「いやっ、そこをなんとかっ! ちょっとぐらい見逃してくれてもバチはは当たらねえと思うぞ?」
「そうね……せめていつもの上着を着てれば不問にしてもよかったけど、その格好だとさすがに無理ね。完全に私服だもの」
「……やっちまったぁああああ!」
「提出期限は来週の月曜日よ。それまでに提出するように」
「げぇ、マジかよ……憂鬱だぜ……」
「ああ、井ノ原、ちょっと待って」
 億劫そうに歩き出した井ノ原を呼び止める。
「なんだよ……。まだなんかあるのかよ?」
 むしろこちらが本題だ。
「ええ。クドリャフカなんだけど、あなたどこかで見掛けなかったかしら?」
 あの子が私の考えている通りの行動を取ったのなら、きっと知っているはず。
「あん? クド公だったら途中で会ったぜ」
 やはり、井ノ原が居場所を知っていた。
「本当? どこで見掛けたの?」
「どこって、土手沿いの河原にいたぞ。オレが土手を走ってるときに丁度見えてよ。なにしてるか聞いたら、散歩の途中で休憩してんだとよ。犬も一緒に連れてたな」
「そう……ありがとう、助かったわ」
「つーか、捜してんだったらケータイに電話すりゃいいんじゃねえか?」
「掛けても無駄よ」
「ん? なんでだよ?」
「あの子の携帯は部屋に置いてあるもの」
「なんだよ、クー公のやつケータイ忘れてったのかよ。案外抜けてんなぁ」
 ……あれはむしろ、敢えて置いていったと考えた方がより自然な気がする。おそらく、一人になるために。
「それでまだ戻らないから心配してたのよ。なにかあってからじゃ遅いし」
「ふーん。まあ大丈夫じゃね? 犬二匹連れてたし、なにかあればあいつらが黙ってねえだろ」
 井ノ原の言うとおり、ストレルカたちを連れてるなら事件に巻き込まれる心配はないだろう。
「そうね。それじゃあ、もう戻っていいわよ。男子はそろそろ夕飯の時間になるんじゃない?」
「へいへい、わかってるよ。んじゃあな、二木」
 男子寮に向かう井ノ原を見送ったところで、改めて時刻を確認すると門限は既に過ぎていた。

 部屋のドアを恐る恐ると言った体で開けるクドリャフカの姿を確認して、私は小さく息を吐いた。
「おかえりなさい、クドリャフカ」
「た……ただいまなのです、佳奈多さん」
 クドリャフカの目は赤く腫れていた。
 それだけでおおよその事情を察することができた。きっと思い切り泣いていたのだろう。表情は幾分かすっきりしたように見えた。
 また、手には上着らしきものを抱えていた。
「随分と遅かったわね。なにをしてたの?」
「すみませんです。えと、ストレルカたちの散歩の途中でちょっと寄り道をしてました」
「そう……わかったわ。今度からは遅くなりそうなときは連絡しなさい。あなた、携帯も置いていったでしょう」
「あ……はい。次からは気を付けます」
「それと門限も過ぎてるから、来週の月曜日までに反省文も提出すること。いいわね?」
「はい、わかりましたのです」
「よろしい。ああ、それとひとつ気になったんだけど、あなたが今抱えてるそれはなに?」
「あ、これは井ノ原さんにお借りした上着なのです」
「井ノ原に……?」
 そんなこと、井ノ原は一言も言っていなかった。
「はい。途中でランニング中の井ノ原さんとお会いしまして、おまえは筋肉少ねえんだからこれでも被ってろと。夕方になると少し冷えますし、きっと気を遣ってくれたのだと思います」
 ……なるほど、そういうことね。
「佳奈多さん?」
「いえ、なんでもないわ」
 もしかしたら井ノ原も気付いていたのかもしれない。
「それより、すぐに返さなくてよかったの?」
「あ、はい。まだ予備はあるからと仰ってました。それにお借りしてる間に汚してしまったので、きれいにしてお返ししようと思います」
「そう。じゃあそれは置いて、夕飯に行く前にクドリャフカは先に顔を洗ってきなさい。ひどい顔よ?」
「あ……はいっ」
 洗面室に駆け込むクドリャフカを見ながら思う。
 井ノ原のおかげ、なのかしらね。

      § § §

「よう……」
 指導室で委員会の書類を整理していたところに、ふいに井ノ原が姿を見せた。
「井ノ原、何の用かしら?」
 念のため用件を確認する。とは言え、手にしている物が見えた時点で見当は付いているけれど。
「コレだよ。どうだ、ちゃんと仕上げてきてやったぜ……!」
 井ノ原が満足げな顔で反省文を突き出してきた。ただ、その顔には疲労の色がありありと浮かんでいた。
「期限を守るのは当然よ。まあ、お疲れさま」
 井ノ原から反省文を受け取り、文面に目を落とした。
 ──問題あり、と。
 とりあえず井ノ原には椅子に座るよう促し、確認が終わるまで待つよう言い含めた。
「へいへい」
 改めて反省文に目を通していく。
 これは……少し時間が掛かりそうね。
 ざっと目を通し終えたところでペンを取り出した。
 今なら、先日のことを聞くのに丁度いい機会だろう。
 私はペンを走らせながら問い掛けた。
「ねえ……ひとつ聞きたかったんだけど」
「ん、おう。なんだよ?」
 クドリャフカが井ノ原の上着を持っていたこと。そこに至る経緯がずっと気に掛かっていた。なにもなかったとは思えない。
「私がクドリャフカを捜していたあの日、あなたは上着も持たずに校外を走っていた。だから私は罰を言い渡したわけだけど」
「ああ」
「改めて聞くけど、どうして上着を着てなかったの?」
「あれ? 言わなかったっけか?」
「だから改めてと言ったでしょう。確認よ」
「へいへい。上着を脱いで走りたい気分だったんだよ。これでいいか?」
 そう……やっぱりごまかすのね。
「クドリャフカに聞いたわ。あのとき本当は、上着はクドリャフカに貸していたんでしょ」
「ん? ああ、そういやそうだったな。すっかり忘れてたぜ」
 井ノ原の反応はごくごく自然で、とてもとぼけているようには思えない。けれど、現に私はクドリャフカに話を聞くまで見抜けなかった。
「どうしてごまかすの」
「ん、ごまかすってなんのことだ?」
 この先を聞くのは、やはり気が引ける。けれど確認しておく必要があった。
「本当はクドリャフカの状態に気付いてて、だから言わなかったんじゃないの?」
「そりゃどういう意味だよ」
 普通なら、わざわざ隠す必要はなかったはずだ。ひと言、クドリャフカに貸したと言えばいいだけのこと。それをしなかった理由は、きっと──。
「……クドリャフカ、泣いてたんでしょ? だからあなたはあの子に上着を貸した。違う?」
 井ノ原が押し黙った。
「沈黙は肯定と受け取るわよ」
 井ノ原はがしがしと頭を掻いた後、ため息と共にこぼした。
「……で、それを聞いてどうしようってんだ」
 これでようやく合点がいった。クドリャフカの様子にも、井ノ原が上着を着ていなかった理由にも。
 クドリャフカが井ノ原を信頼する理由が少しだけ理解できた気がした。
「なにもしないわ。ただ、状況を把握しておく必要があったの」
「……はぁ?」
「あの子も今は自然に笑えてる。あなたがクドリャフカとなにを話したのかまではわからないけど……」
 きっと井ノ原なりの励ましがあったはずだ。
「ありがとう、あなたのおかげよ」
 自然と湧き上がってきた気持ちを感謝の言葉にして伝えた。
「……おまえ、本当にあの二木か?」
 随分と失礼な物言いだった。
「なによ、私がお礼を言うのがそんなに変かしら」
「そういうんじゃねえんだが……なんで二木にお礼を言われてるのか、いまいちピンとこねえんだよ」
 その声音が戸惑いの色を帯びていて、単に感謝されるのに慣れていないんだと腑に落ちた。
「それなら簡単なことよ」
 私は井ノ原の目をまっすぐ見つめた。
「私にとってあの子は大切な友人だもの」
 紛れもない私の本心を告げる。
 私の言葉にやがて得心がいったのか、井ノ原がそっと笑みを浮かべた。
「……そっか。そうだな、そういうもんだよな」
 普段の井ノ原には似つかわしくない、穏やかな笑み。きっとこれが井ノ原の本質なんだろう。
 不思議と心があたたかくなる笑顔だと思った。
「私が聞きたかったのはそれだけ」
「そうか」
 ここからは思考を切り替える。
「それとこっちも終わったわ。はい」
 チェックを終えた反省文を井ノ原に手渡した。
「ん? なんだよ、これ」
「再提出ね」
「──はぁあああぁああっっ!?」
 どれだけ印象が変わっても、相変わらず井ノ原は井ノ原のまま。それがどれだけすごいことなのか、私はいまさらながらに理解した。
「言葉の使い方や文法が間違ってるわ。赤で訂正したところを直して、もう一度提出するように。もっとも」
「うぉおおおおっ、なんじゃこりゃあっ!? 一面真っ赤じゃねえかよっ」
「──最初から全部書き直した方が早いかもしれないけど。訂正した箇所がかなり多かったから」
「うへぇ、マジか……。いかにオレの筋肉さんと言えど、そろそろ限界に近いぜ……」
 がっくりと項垂れる井ノ原。
「……なんなら私が教えてもいいけど」
 思わず手助けするような言葉が口をついて出た。
「……は?」
 案の定、井ノ原は目を丸くしている。
「だから、私があなたの文章の書き方を指導してもいいって言ってるのよ。こちらとしても何度も再提出されるよりは、その方が効率的だし。その場で提出することにはなるけど」
「おまえが?」
「ええ」
 まあ、少しくらいなら構わないわよね。
「……へっ、情けはいらねえぜ。このオレの筋肉に懸けてな!」
 私の提案に乗ってくるかと思ったが、意外にも井ノ原は乗ってこなかった。懸けるのが筋肉というところが、いかにも井ノ原らしいとは思うけど。
「そう……わかったわ。それじゃあ提出期限は明後日の午後五時までだから、遅れないようにしっかりやりなさい」
「おう、わかってらぁ」

      § § §

「──それで結局、また書き直しよ。仕方ないから私が横で指導することにしたけど、見栄なんて張らずにはじめから受けていればよかったのに。まったく、井ノ原には困ったものよ」
「ふふっ。楽しそうですね、佳奈多さん」
 クドリャフカがにこにこと笑う。
「ちょっとクドリャフカ。今の発言のどこが楽しそうなの」
「おわかりになりませんか? だって」
 クドリャフカが急に立ち止まった。
「どうしたの?」
 振り返る。隣を歩いていたはずのクドリャフカの姿が見えなくなっていた。
「クドリャフカ……?」
 ふと疑問が頭を掠めた。そういえば、どうして私はクドリャフカと一緒に歩いていたんだったか……。
「委員長、早く行きませんか?」
「そうです。遅れてしまいますよ」
 委員の二人が私を呼ぶ声がする。
「あの、どうかしましたか?」
 ……そうだ。今日は風紀委員の定例会があるんだった。なぜ忘れていたのか。
「いえ、なんでもないわ。じゃあ行きましょうか」
 二人と一緒に会議室に向かう。
 途中、廊下の先に葉留佳の姿が見えた。葉留佳がこちらに気付く。次の瞬間、その表情が憎悪に染まった。
「……え?」
 思わず足が竦んだ。今の視線は明らかに私を睨んでいた。
 そんな、どうして……。
「委員長? 足が止まってますよ」
「え?」
 委員の一人に呼ばれ、我に返る。
 もう一度前を見ると既に葉留佳の姿はなかった。おそらく疲れが溜まっているせいであんなものを見たんだだろう。
 きっと、見間違い……そう、見間違いよ……。
「佳奈多さん」
 振り向くと、先ほどから姿が見えなくなっていたクドリャフカが立っていた。
「っ……クドリャフカ、あなたどこに行ってたの?」
 さっきからわけがわからないことばかりだ。
 詳しく話を聞こうと一歩近付くと、クドリャフカが距離を取るように後ずさった。
「く、クドリャフカ……?」
 不安になって、クドリャフカに向かってそっと手を伸ばした。
「ひっ」
 ──え?
 バチンッ、と打ち払われた手がじんじんと痛む。
「ち、近付かないでくださいっ」
 クドリャフカの顔には怯えの表情が浮かんでいた。
 なにが……起きてるの……?
「うわぁ……なにアレ? 気持ちわるぅ」
 誰かの言葉に視線を下ろす。
 っ! なんで、なんでなんでなんでっ……いつも長袖で隠しているはずなのに、どうして肌が剥き出しに──
『ヤケドなんじゃない?』
『ミミズ腫れとか……イヤだイヤだ、目が腐っちゃうよ』
『あんなのよく人前に晒せるよねぇ』
『気味が悪くて近寄りたくないわ……』
 わからない、わからないわからない──
「キモチワル……あんなのが私の姉なワケないよ」
 そんな葉留佳の声がはっきりと聞こえた。
 ──────────────
 ──────
 ──
「────か──っ、────さんっ! 佳奈多さんっ!」
「っ」
 視界に飛び込んできたクドリャフカを認識した途端、全身が総毛立った。
「きゃっ!?」
 ────反対側のベッドに倒れ込むクドリャフカ。
 反射的に突き飛ばしてしまったと気付く。
「あっ……ご、ごめんなさい!」
「だ、大丈夫なのです。特にケガもありませんし」
 手を振ってクドリャフカが応える。
「それよりも、佳奈多さんの方こそ大丈夫なのですか? 随分と魘されてましたけども……」
 心配そうな様子のクドリャフカに酷く罪悪感を覚えた。
「あ……だ、大丈夫よ。少し夢見が悪かっただけだから……気にしないでちょうだい」
 本当は、少しなんて生易しいものではなかったけど、それを口にすることはできなかった。
「そう、ですか? ……わかりました」
「それと、私のせいで起こしてしまったわね。ごめんなさい」
「いえそんな、気になさらないでください。こういうときこそ助け合いの精神なのですっ」
 この子のこういうところにも私は助けられてる。
「ありがとう……少し、シャワーを浴びるわね」
「はい。どうぞどうぞ、なのです」
 私は浴室に入るとシャワーの勢いを最大にした。少しでもシャワーの音に紛れるように。外のクドリャフカに聞こえないように。
 浴室の壁に額を押し付ける。もう、嗚咽を堪えきれなかった。
「っ……っひ……ぅ……っく……」
 なんなの今日の夢は……本当に、なんなのよ……っ! あんな夢、私は体験してないのに、なんで……っ!
 私は声を押し殺して泣いた。

「あ、おかえりなさいなのです」
 シャワーを終えて戻るとクドリャフカがまだ起きていた。
「……ええ」
 心配してくれているのだろう。けれど、今は一人になりたいと思った。
「今から少し、外の空気を吸ってくるわね」
「今からですか?」
「ええ。まだ早い時間だけど、気分転換にね」
「わかりました。それでは、気を付けていってらっしゃいなのです」
「じゃあ……行ってくるわね」

 クドリャフカがなにも言わずに送り出してくれたことは、素直にありがたかった。もしかしたら、私が一人になりたいと気付いていたのかもしれないけど。
 私は中庭まで歩くとベンチに腰を下ろした。今はなにも考えたくなかった。目を閉じるとまた夢を見そうで、だから私はぼーっと空を眺めていた。
 しばらく空を眺めていると、小気味よい足音が響いてきた。
 その音のする方に顔を向ければ、知り合いが走ってくるところだった。
「げ、二木」
 また井ノ原と出会った。できるなら、知り合いの誰とも顔を合わせたくなかった。みんなお節介な人たちばかりだから。
「って、おまえ……」
 井ノ原の表情が嫌そうなものから訝しげなものに変わる。
「なあ、なんかあったのか?」
「別になにもないわ。……なにもね」
「そうか。ならいいけどよ」
 明らかに納得していない顔でそんなことを言う。
「なんかおまえ、悪い夢でも見たような顔してるぞ」
 その言葉に心臓を鷲掴みにされたかのような気がした。
 知っているはずがない。
 井ノ原はきっと例えで言ったに過ぎなくて、他意だってないに決まってる。
「……仮にそうだとしても、所詮は夢よ」
「否定はしねえんだな」
 いつもの脳天気な雰囲気は鳴りを潜めて、井ノ原の口調はひどく落ち着いていた。
 まさか動揺を見透かされた?
「夢見が悪いことくらいあなただってあるでしょう。その程度のことよ、珍しくもないと思うけど」
「まあ、そうだな」
 直感する。これ以上今の雰囲気の井ノ原と一緒にいると、いつもの冷静な自分でいられなくなる。
「井ノ原、そろそろ行かなくていいの? 朝のトレーニング中なんでしょう?」
 私は強引に話を切り上げ、井ノ原にこの場を去るように促した。
「二木はどうするんだ」
「私は部屋に戻るわ。外の空気も吸ったことだし、もうここにいる意味もないから」
「そうか。じゃあオレはもう行くぜ」
 私がベンチから立つと、井ノ原はそう言って駆け出していった。

      § § §


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