『恋人は斯様に(サンプル)/収録誌:まだ、とちゅう。』



「棗くん棗くん」
「ん、なんだ」
「えいっ」
 振り向くとぷにっと頬に指が押し当てられた。
「おい……なんの真似だ」
「んー、なんのことかしら」
 あきれてため息をつく。
「まったく、おまえは子供かよ」
「えー、マンガに夢中で彼女をほったらかしにしてる棗くんには言われたくないわよお」
「む……」
 たしかにせっかく二人っきりになれたのに、やめずにそのまま読み進めちまったのは俺の悪いクセだ。
「悪かったよ」
 さすがに素直に謝った。こいつはたいてい笑って許してくれるけど、一度機嫌を損ねたときは全然俺の相手をしてくれなくなってマジで泣きそうだった。
「んー、それじゃあ……おわび」
 そう言うとこいつは人差し指でちょんと自分の唇に触れた。
 なにが言いたいか理解する。
 そっと髪を梳くようにして抱き寄せると唇を重ねた。
「んっ」
 まだまだつたない形だけのキス。それでも俺たちにとっては十分すぎるほどで。
「っ……はぁ」
 キスを終えて離れるときの吐息が妙に艶かしく感じられる。
 それだけで俺の中のなにかが燃えたぎるように熱くなる。同時に理性がそれに歯止めを掛けた。
 こういうとき、俺も男なんだとつくづく実感させられる。
 一瞬前まで満足していたのに、さらに求めようとする。足りないと求めたくなる。
 今はまだ早いと感じていても、いつかお互いを求める日が来るんだろう。
「……ここが寮長室でよかったな」
「え……どうして?」
「一人暮らしの部屋だったら……止める必要がないだろ?」
「え……あっ! な、棗くんそんなこと考えてたのっ!?」
「そりゃあ考えるさ。逆に聞くが、おまえはそういうこと一度も考えたことないのか」
「え……う」
 聞き返されるのは想定外だったのか、顔を赤くして目を泳がせていた。
 こいつは本当に俺の心をつかんで離さないな……ったく、敵わないっての。
「まあ、おかしなことじゃないだろ。今の環境じゃ難しいだろうけど、将来的にはそれが普通になるだろうしな」
「……え? 棗くん、それって」
「なんだよ。俺は一過性の恋で終わらせるつもりなんてさらさらないぞ。おまえとはずっと一緒にいたいと思ってるしな」
「あぅ……棗くん、殺し文句が過ぎるわよ……」
「え、なんでだよ? 特別なことは言ってないつもりだぞ」
「だから、それが反則なのよぉ……」
 俺にはこいつがなにを言ってるかさっぱりわからない。
「俺から言わせればおまえの方が反則だと思うんだがな……」
 今だって紅潮した頬と潤んだ瞳がヤバいくらい俺の精神力をガリガリと削ってる。
 正直、俺を悶え殺す気なのかと声を大にして言いたい。
「じゃあ、言うけど……棗くんのセリフ、まるでプロポーズみたいだった」
「え?」
 ……ホワッツ? なんだって?
 …………プロポーズ?
 ………………あ。
『将来的にはそれが普通になるだろうしな』
『おまえとはずっと一緒にいたいと思ってるしな』
 あぁあああっっ!?
「いや、その、今のはだな……」
「やっぱり気付いてなかったんだ」
「わ、悪い」
「ふふ、いいわよぉ。言ってから気付くなんて棗くんらしいしねえ」
「ぐ……反論できねえ」
 ぬぉおおおっ、すげーはずかしいぞ……なんだよこれ……。
「あ、そろそろかなちゃんたちも戻ってくる頃ね」
「あ、ああ。もうそんな時間か」
 時計を見ると、たしかに二木たちが戻ってきてもおかしくない時間だった。
 あー、今の状況見られたらどうすんだよ……絶対顔赤いぞ、俺。
 こいつはもう立ち直ったのかにやにや笑ってるし……くそぉ。
 本当なら『見られなくてよかったな』なんて言って赤くなるこいつを見ようと思ってたのに、これじゃ立場が逆転してるじゃないか。
「ふふ、棗くんって意外と不意打ちに弱いわよねえ」
 からかわれた……ちくしょうっ。

 ──────────────
 ──────
 ──

「────ということがあってだな。ってなんだよおまえら、その顔は」
 理樹も真人も、まるで味のないガムを噛んでいるかのような顔をしていた。
 謙吾はそもそも目を閉じていて、なにを考えてるか読み取れない。
「俺がこんなに一生懸命話してるのに、なんて友達甲斐のない奴らなんだ」
 俺はショックだ……。リトルバスターズの絆とはこんなものだったのか?
「……ひとついいか」
「よし、真人。意見を聞こうじゃないか」
「なんで偉そうなんだよ……。そもそものところ、おまえの話の意図が見えないんだが……おまえはオレたちにはずかしい話をしたかったのか? それとものろけを聞かせたかったのか?」
「どっちも違う。今の話を聞いてどうしてそういう解釈になるんだ」
 まったく、わけがわからないぜ。
「いや、むしろこれ以外に意味があるなら聞きたいんだが」
 俺はこれみよがしに大きく息を吐いた。
「いいか真人。俺があいつとなにをしていたのかは問題じゃない。問題なのは、俺があいつにからかわれてしまったということだ」
「いや待て」
「なんだ?」
「オレはおまえが恥を忍んで相談があるなんて言うから、てっきり彼女と喧嘩でもしちまったのかと思ってたんだ。ところがだ……話を聞く限りそんな様子はこれっぽっちもねえ、それどころかひたすら彼女とのイチャイチャっぷりを聞かせられる始末、終いにゃあからかわれたからやり返したいときた……ふざけてんのか?」
「俺は大まじめだ」
 そうきっぱりと言ってやるとなぜか真人はため息をついた。
「理樹ぃー、こいつどうにかしろよぉ……」
「僕に言ったって無理だよ……」
 理樹も真人も二人揃って嘆いていた。
「おいおい、ヒドい言い草だな。むしろ本題はこれからだってのに」
 こいつらはなにをそんなに嘆いているんだ。
「恭介……悪いことは言わねえからやめとけって」
「なんだよ、まだなにも話してないぞ」
「どうせまた調子に乗って怒らせるだけだっての」
「なぜだ。なぜそう思う」
「本気で忘れたのかよ……。前も似たようなことやってオレたちに泣きついてきたじゃねえか」
「……あ」
「ったく、マジで愛想尽かされても知らねえぞ。あいつらはあっちの味方につくだろうしな」
「や、やめろっ、それ以上傷を掘り返すんじゃないっ」
 女子メンバー全員から説教を受けたトラウマがっ!
「あのときの恭介はなぁ、情けなくて正直見てられなかったぜ」
「……さあて、今日はなにをして遊ぶか」
 ははは、こんな天気には野球なんてよさそうじゃないか。
 そう言って窓の外を見遣ると、雨が降っていた。
「こいつ、現実逃避しやがった……」
「恭介……」
 憐れむような視線が痛かった。
「……うるせいやいっ! 俺だって付き合うのは初めてなんだよっ!」
「お、おお……見事なまでの逆ギレっぷりに思わず納得しそうになっちまった」
「うん……すがすがしいまでの開き直りだよね」
「ああ……いやしかしだ、それを言ったらオレたちは相手すらいねえぞ」
「ふん、俺を見くびるなよ。知ってるんだぜ、最近おまえらに親しい仲の女子がいることを。たとえば──」
 名指ししようとして気付く。
 そういえば、謙吾のやつさっきから無反応だな。
 ……まさか寝てないよな?
「──たとえば謙吾!」
「む、俺か」
 よかった、起きてたか。
「そう、おまえだ。以前あれだけ邪険にしていた笹瀬川と今じゃよく会ってるらしいじゃないか」
「なにぃ? 本当なのかよ、謙吾」
「邪険は言い過ぎだろう……。たしかに避けていたのは事実ではあるが」
「それは正直どっちでもいい。実際のところはどうなんだ」
「……まあ、否定はしない」
 謙吾の返答にそれぞれの口から感嘆のため息が漏れた。
「やっぱりそうなんじゃないか」
「マジかよ……もしかしてもう付き合ってるのか?」
「そういうわけではない。勘違いしてるようだが、俺はあくまで会ってることを肯定しただけだぞ」
「でも、なにか印象が変わるきっかけがあったんだよね?」
 理樹は謙吾の変化を敏感に感じ取ったのか、それは問い掛けるというよりも確認に近かった。
「む……まったく、理樹には敵わんな。ああ、そうだ。たまたま相談に乗る機会があってな、そのときに彼女の人となりを知った。いい娘だぞ、笹瀬川は」
「謙吾としてはどうなんだよ」
 真人が珍しく真剣に問い掛けた。
「俺自身の気持ちに整理がつけばあるいは。……ただ、今はまだ難しいな」
「そうか」
「ああ、こればかりはな」
 さすがに今の話を聞いて茶化すわけにはいかなくなった。
「時間を掛けてゆっくり行けばいいさ。焦ったって失敗するだけだ」
「そう、だな」
 噛み締めるように謙吾が呟く。
 わかっていても納得しきれないと言ったところか。
 たぶん、笹瀬川に正面から向き合えない自分への苛立ちもあるんだろう。
 しかし、あとは謙吾自身の問題だ。そっとしておいてやろう。
「よし、謙吾の話が終わったところで次は理樹だ──と言いたいところなんだが、理樹は言わずもがなだな」
「いやいやいや、その表現はおかしいよね? ってなんでそこで二人とも頷いてるのさっ」
 理樹が真人と謙吾に詰め寄る。
「だって、なあ?」
「ああ。理樹に関しては俺もその通りだと思う」
 理樹は納得がいかないといった顔だ。
「とはいってもな、あのバス事故での救出劇の立役者なんだ。仕方ない面もあるんじゃないか」
 現にあいつらの好意は理樹に向いてるわけだし。近くで見てるとよくわかる。
「……なんだか周りの人から自分の評価を聞くのが怖くなったよ」
「そうか? 評価は高いと思うがなぁ」
「いや、そういう意味で言ったわけじゃないんだけど……」
 もういいよ、と理樹が言うのでひとまず措いておくことにした。
「そして最後は真人、おまえだ」
「オレもあるのかよ」
 真人がげんなりとした表情でぼやく。
 だが、俺はむしろ真人にこそ言いたい。
「なぜおまえは寮長室で手伝いなんてしてるんだっ」
「はぁ? 文句があるなら二木か男子寮長に言えよ……。オレは頼まれたからやってるだけだぜ。つーかなんで恭介が怒ってんだよ?」
「あいつと二人きりになれないだろっ」
 せっかく付き合い始めたのに、あいつが寮会所属なせいでなかなか時間が取れないんだよ!
「ええぇーー、そんな理由なのかよ」
「すごい不純な動機だね……」
「ふむ、校舎の一室で二人きりか……ロマンがあるな」
「はあっ!?」
「おおっ、さすが謙吾! わかってくれるか!」
「おうともっ」
 謙吾と強く手を握り交わした。
「いつの間にスイッチ入りやがったんだよ、こいつは」
「さ、さあ……」
 おっと、危うく脱線するところだった。
「よし、話を戻そう。じゃあ早速だが真人、やめてくれ」
「おい」
 低く重い真人の声。
「なんでオレがやめる流れになってんだよ」
「いいだろ、こちとらいちゃいちゃしたいんだよ」
「おまえなぁ……そんなに二人きりになりたきゃ休みの日にデートでも行けばいいじゃねえかよ」
「それができてたらこんなことにはなってない」
「胸を張って言うことかよ……。いい加減ツッコミ疲れたぜ。そもそもそんな権限恭介にあったのかよ」
「いや、ないが」
 きっぱりと断言した。
「ないんじゃねえかよっ」
「それはもちろんあいつらに頼むに決まってるだろ」
「え、それって職権乱用とか公私混同って言うんじゃ」
「理樹、気にするな」
「いや、さすがに気にするよ……」
「だいたい、仮にオレが抜けたところでまだ二木とかがいるじゃねえか。そっちはどうするつもりなんだよ」
「それも頼むつもりだ。二木はあいつの言葉がきっかけで手伝い始めたらしいし、寮会所属ってわけでもない。男子寮長の方はなにも言わずとも察してくれるはずだ。人が減った分の仕事は俺がやる」
「そこまで考えてたのかよ……」
「なんて言えばいいのか困るね……」
 理樹も真人もあきれを含んだ顔を隠さない。
 なんだよ……ちくしょう、こいつらなら理解してくれると思ったのに。
「もう恭介がどう思おうが勝手だけどな。オレは引き受けたからには最後までやるつもりだぜ」
「そうか……」
「恭介、真人がこう言ってるんだ。諦めるしかあるまい」
「……そうだな。無理強いして悪かった」
「おう。それで相談はこれで終わりってことでいいのか?」
「あ、いや、実はまだあるんだが……ちょっとな」
「あん? なんだよ」
「恭介、そんなに言いにくいことなの?」
「ああ、と、だな……」
「らしくないな、遠慮するなんて」
「……わかった、言おう」
 俺も男だ。腹をくくろう。
「俺……あいつに下の名前で呼ばれたいんだ。できれば恭介くん、と」
 沈黙がおりる。
 目の前を横切るトンボを幻視した。
「いいじゃないか!」
 謙吾が笑顔でサムズアップをくれた。
 その横ですっと理樹と真人が立ち上がった。
「待て、無言で去らないでくれ!」
 慌てて二人を引き止める。
 くそっ、味方は謙吾だけかよっ。
「ったく、好きに呼んでもらえばいいじゃねえか」
「それができないからこうして相談してるんじゃないか」
「いや、普通に頼めばよくね?」
「だよね……」
 二人はわかっていないようだ。
「そんなの……はずかしいじゃないか」
「てめえは女かよっ」
「それに自然な流れで呼ばれたいじゃないか」
「まあ、それはわかる気もするけど」
「そんなの時間が解決してくれるだろ……あれ? つーかオレ、恭介が女子寮長のことを下の名前で呼んでるの聞いたことねえぞ」
 ぎくりとした。
「そういえば……僕も聞いたことないね」
「俺もない」
 三人の視線が俺に集まる。
「恭介、おまえきちんと呼んでるのかよ?」
「……いや、まだ」
 正直に白状した。
「言えてねーのかよ」
 真人が長いため息を吐いた。
「おまえ、それでよく鈴のことどうこう言えたな」
 ぐっ、正論だけに反論できん。
 しかし、まさか真人に言われることになるとは思ってもみなかった。
「そこはしっかり呼んであげた方がいいんじゃないかな」
「たしかにな。だが、俺は恭介の気持ちもわかる気がするな」
「あ? なんでだよ」
「異性に対して呼び慣れない名前を口にするのは、やはり気恥ずかしいものだ。真人にその機微を察しろというのは難しいかもしれんが」
「んだとぉ」
「まあまあ、真人。抑えて」
「ちっ、仕方ねえな」
「ねえ恭介、向こうから呼んでほしいとは言われなかったの?」
「いや、前に一度言われたことはあるんだが、そのときは断っちまった」
「おい、チャンスふいにしてんじゃねえかっ」
「仕方ないだろっ。そのときは俺だっていっぱいいっぱいだったんだよっ」
 告白の返事をもらった直後だったんだからさ!
 そこでふいに謙吾が口を開いた。
「名案を思い付いたぞ。恭介、愛称を使うというのはどうだ? たとえば『ハニー』もしくは『スイートマイハニー』などどうだろうか」
 謙吾の言葉に天啓がひらめいた。
「はあ? 『どうだろうか』じゃねえよ。そっちの方がよっぽど──」
「謙吾、冴えてるじゃないか。ナイス案だ!」
 ゆっくりと親指を立てて感謝を示す。
「って、ええぇーー……。名前で呼んでくれって頼むのははずかしいくせに、これは平気なのかよ。オレにはさっぱりだぜ」
「あ、あはは……恭介や謙吾はともかく、僕や真人には似合わないね……」
「…………おえっ! 理樹ぃーっ、自分が言ってるとこ想像しちまったじゃねえか!」
「ご、ごめん。でもこれで解決の糸口は見えたと思うよ。ね、恭介。名前で呼ぶことへの抵抗感が薄れてくればそのうち呼んでくれるんじゃないかな」
「ああ。三人ともありがとうな、助かった」
「いやまあ、恭介が納得してるならそれでいいけどよ」
「少しでも役に立てたならなによりだ」
「恭介、がんばってね」

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